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読書

【心に響く本】ファウスト

今回のお題

今回のお題はゲーテの「ファウスト」です。

世界的文豪の有名な作品ですね。

内容については様々な解説サイトがあるので、詳しくはそちらを参照していただくとして、

ここでは極めて簡潔に端折ったあらすじを記すに留めます。

そしてその後に、私にとって印象深かった言葉をピックアップしてご紹介します。

*私が読んだのは新潮文庫の高橋義孝さん訳のものです。

*以下、抜粋の出典はこちらの本からになります。

あらすじ

世界の叡智を極め尽くした老学者ファウストは苦悩します。

「結局何もわからない」と。

知性や学問にどれほど力を尽くしても、真理には届かないと。

絶望の中で、ファウストは自らの命を絶とうとしますが、

結果的に思いとどまります。

そこに、悪魔メフィストフェレスが現れてある提案をします。

「私がおまえに仕えよう。人にはできぬあらゆる体験を与えよう。

その代わり、お前が全てに満足したと言ったとき、

その魂を私によこせ」と。

ファウストはこの提案を受け容れます。

そして長い旅が始まるのです。

 

尋常ではない様々な体験を重ねたファウストは、

紆余曲折の末、海岸地域を治める統治者となり干拓事業に着手します。

計画は順調に進んでいきますが、立ち退きを拒む老夫婦を誤って殺害してしまいます。

この出来事によりファウストは視力を失い盲目となります。

それでも光を失ったファウストの耳には干拓工事の音が響き、

彼の心には人々が協力して危機を乗り越えようとする光景が浮かび上がっていました。

「とまれ、お前はいかにも美しい」

彼の口から言葉が走ります。

探し求めた世界、夢見た景色、最高の一時、そして至福の言葉。

それはファウストが望んだ、真理に到達した瞬間であり、

メフィストフェレスが望んだ、彼の魂を奪い取る瞬間でもありました。

契約通りファウストは命を落とします。

しかし彼の魂はメフィストフェレスの手に渡ることはなく、

長い旅の中で出会い、愛し、失った、

最愛の女性グレートヒェンの魂に救われて天へ召されていきました。

 

これが物語の大筋となります。

ファウストの決意

絶望し自暴自棄になっていたファウストは、

メフィストフェレスの提案を受けて以下のように語ります。

 己は自分の心で、全人類に課せられたものを

 じっくりと味わってみたい。

 自分の精神で、最高最深のものを攫んでみたい。

 人類の幸福と苦悩とを己の胸で受けとめてみたい。

 そして己の心を人類の心にまで拡大し、

 最後には人類同様、己も滅んで行こうと思うのだ。

味わいたい、掴みたい、受け止めたい。

外から得た情報としての知識や学問ではなく、

自らの体験を強く求めていることが分かります。

そしてそれは幸福だけではなく苦悩も伴うものであると考えています。

真理を求め、獲得したあかつきには死をもって滅ぶ。

この言葉に表れる彼の潔さ、強い目的意識と覚悟には憧れさえ抱きます。

人生はどこまで生きたかではない、どう生きたかだ。

そういったメッセージを受け取ったような気持ちになりました。

憂いのささやき

干拓事業の中で不本意にも立ち退きを拒む老夫婦を殺してしまった際、

ファウストのもとに憂いが忍び寄ります。

往こうか、戻ろうか、

決心がつかないのです。

大きな坦々たる道の真ん中で、

足許がよろよろするのです。

段々方角がわからなくなって、

見当が全く狂ってきて、

自他の荷厄介になり、

息をしながら息苦しい想いで、

窒息はしないまでも生きた心地がしない。

絶望はしないが、釈然とはせず、

絶えず右往左往して、

諦めるには辛く、無理にやるのも厭で、

開放されたかと思うと束縛され、

眠りも浅く、心から休まれず、

だからその場で立ち往生で、

とどのつまりは地獄行きなのです。

この一連の言葉、まさに憂鬱そのものです。

決心がつかず、闇の中を彷徨い続ける感覚。

息をしながら息苦しい思い。

致命的な絶望もなく、手を伸ばしたくなるような希望も見えない。

ここに止まるわけにはいかない。

けれど、どこに向かえばいいのか分からない。

生き地獄。

この感情、身に覚えがある人も少なくないのではないでしょうか。

 

憂いが放ったこの言葉は、決して明るい内容ではありません。

この文章を読んだとき、私自身胸が潰れるような息苦しさを感じました。

ですが、同時に安堵している感覚もあったのです。

「私だけじゃなかった」と。

「この感覚を分かり合える人がいるんだ」と。

この呪いにも似た重苦しい言葉たちは、

すでに呪いにかかってしまった者にとっては救いでもあるのです。

 

悪い出来事ばかりニュースになるのは、それを人々が求めるからだ。

このような話を聞いたことがあります。

誰かの悲しい出来事を耳にして、そうではない自分に安堵する。

自分が優越感に浸れるように、不幸な人の話を求める。

なるほどそういうものなのか、

人間ってそんなものなのかなと思っていました。

しかしこの憂いの言葉に出会い、別の視点を持てました。

誰かの悲しい出来事を耳にして、自分と同じだと安堵する。

自分が寄り添ってあげられるような、

痛みを分かちあえるかもしれない人の話を求める。

そういう側面もあるのではないかと思ったのです。

悲しいニュースこそ、すでに悲しみに打ちひしがれている人を救う

希望を届けているのかもしれません。

そんなことを考えさせられました。

とまれ、お前はいかにも美しい

最後に、視力を失ったファウストが語った最後の言葉を紹介します。

 そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。

 それは叡智の、最高の結論だが、

 「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、

  自由と生活とを享くるに値する」

 そしてこの土地ではそんな風に、危険に取囲まれて、

 子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。

 己はそういう人の群を見たい、

 己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。

 そういう瞬間に向って、己は呼びかけたい、

 「とまれ、お前はいかにも美しい」と。  

日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、

自由と生活とを享くるに値する。

この言葉はファウストが旅の果てに到達した真理です。

彼は自由と生活を自ら獲得する姿勢を善とし、

それゆえに彼は、荒れ狂う波から身を守り自由と生活とを獲得するため、

干拓事業に自ら取り組む人々と共に暮らす生活を夢見ました。

そのような日々が眼前にあると確信した瞬間に、

最高の美を感じ、上記の言葉を発したのです。

 

こうしてファウストは満ち足りた気持ちで人生の幕を下ろしました。

 

物語としてはその後の彼の魂の行方が描かれていますが、

私の中での作品としてのファウストはこの言葉で完結しています。

自分の意志で、代償も厭わずに何かをなす。掴み取る。

このような人生観はとても腑に落ちるものがあり、

世間で言われる「普通に幸せな人生」にはない強烈な魅力を感じます。

私の人生を生きる。

私の心が望む道を行く。

その先にある喜びも悲しみも、すべて自分で引き受ける。

憂いの中にいた自分に、一筋の光が見えたような気がしました。

 

ずいぶん昔に学校で書かされた将来の夢。

スポーツ選手、社長、医者、パン屋さん、警察官やお嫁さん。

不思議と職業や立場、役柄などが並びます。

みんながスラスラと書き進める中、私は筆が進みませんでした。

夢という言葉そのものにピンときていなかったからでしょう。

ですが今なら自分なりの答えがあります。

夢とは仕事や立場のことではなく、自分が満足できる生き方のことであると。

そして今の私の夢は最後の最後にすべてを肯定できる道を歩むことです。

先のことはわかりません。

それは明日訪れるかもしれないし、何十年も先なのかもしれません。

ですが、いざ最後の瞬間を迎えたとき、

自分の人生に向かって、この世界に向かって、

「とまれ、お前はいかにも美しい」と心から言えること。

私の、私だけの人生を私自身が祝福して終えることができるよう、

日々を過ごしていきたいと思います。

 

もう少しだけ語りたいのですが、長くなったので今回はここまでです。

次回に続きます。